頼朝は地方支配のため、全国に守護・地頭を置きました。丹後国では、建久六年、丹後国志楽荘・伊禰保で、頼朝の有力御家人後藤基清が地頭職にあったことや、永仁元年の守護に大江朝臣が確認できますが、断片的にしか分かっていません。元弘三年(一三三三)、後醍醐天皇による倒幕の呼びかけにより、足利尊氏・新田義貞などの有力武将がこれに応じ、鎌倉幕府は滅亡します。丹後では、同年五月の京の六波羅探題攻撃に、与謝郡日置郷(宮津市)の日置氏が、尊氏に味方しました。六波羅探題の滅亡直後には、熊谷直清・直久らによって丹後平定軍が結成され、わずか六日間で竹野・丹波・与謝郡内の十一ヵ所の城郭が破却されました。そうして、時代は後醍醐天皇による建武の新政が始まりますが、足利尊氏が離反、朝廷が二つに分かれ、南北朝の動乱に突入します。波路の戒岩寺は、文殊菩薩像(市指定文化財)を本尊とし、古くより「切戸の文殊」の奥の院と称されました。中津の神宮寺には、平安時代の十一面観音立像(市指定文化財)があります。この像は、もとは柳谷(長岡星市)にあり、文明年間に盗まれ、その後うち捨てられていたもの、という伝承があります。上司の龍源寺は寺伝によると、明応年中、河嶋備前守宣久を開基として、快岸和尚が開きました。宣久は、山城国西岡(京都府向日市周辺)を本拠とする革嶋氏の一族で、心成願寺の薬師如来座像後に移り、同寺の背後にある高妻山城を居城としました。同寺の河嶋備前守像(市指定文化財)は、制作年を知ることができる武将の肖像画として貴重です。脇の休耕寺は、寺伝では永正元年創建と伝えます。同寺の本尊として安置されている観音菩薩立像(市指定文化財)は、平安時代後期の特徴を備えた全体に柔らかで、整った美しさを持っています。小田宿野の成願寺は堂内に薬師如来像(市指定文化財)が安置されています。この像は平安時代の制作になり、その後、丹波地域に広がる麻呂子親王の鬼退治と、これに関係する七薬師の信仰の伝承をもつ像の一つです。
[おすすめサイト]
丹後の旅館「坂本屋瑠璃亭」